« C8051のコンパイラ | メイン | ロシアの寒波と超伝導 »

2006年01月18日

スケーリング的世界観(あるいは、古き良き時代)

LSIを構成するMOSトランジスタには、スケーリング則というものがある。簡単にいうと、「MOSトランジスタを小さくすればするほど、いいことずくめ」ということだ。だから、LSI技術は、MOSトランジスタを小さく作る方向に流れてきた。
しかし、これにはいずれ限界があるのは明白だ。いくらがんばっても原子より小さいトランジスタは作れない。原子うんうんの前に、いろいろ限界があって、そろそろスケーリング則どおりにはいかない、というのが、最近の常識になりつつある。

そう考えると、昔は、よかったわけだ。
あれこれ工夫をするよりも、ただ小さく作れば、そのほうが効果があった。
もちろん小さく作るのは大変なことだけど、技術の方向性ははっきりしていた。どうやって小さく作ればいいか、を考えていればよかった。

しかし最近はそうはいかない。小さくできないし、仮にがんばって小さくしても、いいことずくめ、ではなく、負の効果(もれ電流が大きいとかバラツキが大きいとかコストが高騰するとか)がたくさんでてきて、あまりよくないことも多い。つまり、場合によっては、あまり小さくしないほうがいいこともあるわけだ。

30年以上続いてきた、スケーリング則的世界観の終焉。

これからは、頭を使わなければいけない。
頭を使うところは、どうやって性能を上げるか、とか、どうやって便利なものをつくるか、とか、たくさんある。
ある意味、面白い時代に入ったのかもしれない。昔、こんなものを書いたことがあった。もう10年近く前のことだ。やっとその時代が来た、ということか。

しかし、そのスケーリング的世界観が世の中のすべてだった時代に、その中に生きていた人は、なかなかその世界観から抜けきれない。だから、スケーリング則にこだわり続ける。その姿は、もはや技術ではなく、ほとんど宗教だ。「スケーリングの神」になんとしても従わなければならない、という強迫観念のようにも見える。マインドコントロールは、なかなか解くことができない。過去に自分がいい思いをしたことならば、なおさらだ。
でもスケーリング則通りに世の中なんて進まないし、スケーリングしてもあまりいいことないし、いままではスケーリングを前提にシフトしてきた技術のパラダイム(システムのアーキテクチャとか)も、もはやその通りにはシフトしない。それは過去の遺物なのだ。
そういう宗教に「とりつかれた」人は、哀れだと思う。さらに言えば、そういう人についていかなければならない人も、もっと哀れだと思う。こういう「とりつかれた」人は、その筋で(ある程度)成功した(=いい思いをした)人が多いような気がする。

人間、常に、新しいことに耳を傾ける姿勢を持ち続けたいものです。

投稿者 akita : 2006年01月18日 16:52

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://akita11.jp/mt/mt-tb.cgi/448

コメント

たぶん、ほりえもんは六本木ヒルズに住むための働いていて、インテルの研究員は微細化するために働いているんですよ。

投稿者 aru : 2006年01月22日 15:53

なかなか面白い考え方ですね。
特に後者は、技術者が陥りがちなポイントのように思います。微細化したはいいけど、はて困った、ということが、起こりがち。
目的と手段が逆転しているんでしょうね。

投稿者 akita : 2006年01月23日 09:20

コメントしてください




保存しますか?

(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)