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2008年10月06日

授業のレベルと課題設定

今日、とある学生さんと話をしていて気づいたこと。
講義や授業のレベルを、わかりやすさ・とっつきやすさを求めると、どうしてもレベルをある程度下げざるを得ない。
それによって、しきいが下がって、幅広い学生さんが興味を持ってくれる可能性が高くなる。
が、それとともに、もっと深くつっこみたい学生さんは、物足りなさを感じることになる。
逆に、特に専門の選択科目では、そういう深くつっこみたい学生さん向けに、思いっきりレベルを上げる(マニアックな内容にする)、という方策もある。しきいは上がって、興味を失う学生も多いだろうが、結果として残る学生さんは、非常にモチベーションが高い。
どちらがいい、悪い、という問題ではなく、それぞれの方策。あるいは、その両者の中間で、バランスのよいところを探すべきなんだろう。

そういえば、昔、入り口は入りやすく、浅くすごそうと思えば浅くすごせるが、どっぷりつかろうと思うと、好きなだけどっぷり漬かれるような講義の進め方や課題設定、は、どういうのがいいんだろう、といろいろ考えたことがある。
そのときは、計算機の命令セットまわりの課題で、命令セットを自分で定義して、その動作をエミュレーションするプログラムを書く、というものを設定したことがある。サンプルはあるので、それを元にちょちょっと追加すれば、一応課題としてはOKだが、x86命令のけっこうの部分のサブセットを実装してきたつわものもいて、今思うと、なかなかよい課題設定だったような気がする。

最近、あまりこういうことを考えていなかったが、いい機会なので、ちょっと策を練ってみたいと思う。

投稿者 akita : 2008年10月06日 19:59

コメント

> 入り口は入りやすく、浅くすごそうと思えば浅くすごせるが、どっぷりつかろうと思うと、好きなだけどっぷり
・・・結局、教育は金では買えないし、売れるものでもないですからね。授業料を払っているから教えろというやつには何も教えられませんし、教えるつもりもありません。逆に、入学してなくても、授業料払わなくても、研究室に何かをつかみに来た子供、学生、社会人、その他に、全力で対応する教員が大多数ではないでしょうか。金銭や経歴の有無によらず最高品質の教育が受けられるのが大学の理想です。

私の場合、教養と専門必修科目は、学生の希望に沿って?・・・どんどん実用性の乏しいエンタメ系に(女性が少ないので受け狙いのギャグを考える気力が無くなってきてますが)、専門選択科目は社会の要請と研究の高度化(いや、単に研究費の高額化か?)に従って、どんどんレベルアップというのが実情です。しかし、どの集団で、どのようなレベル設定をしても、追いつき追い越していく人が数%いますし、70%以上の人は努力せず手を抜こうとします。所謂、社会的ロールプレイというやつでしょうか。こう考えると、教員が持てる力を最大限ぶつけるのが健全かと。現状として、全ての科目で優秀な学生と、どの科目もできない学生に別れているのは、講義や実習課題のレベルが低すぎる証拠です。GPAは良くないけど、こういうことをやらせたら、世界一という学生がでてきて欲しいです。今年、担当の選択科目の履修者が減ったのは成果の表れか(いや、授業がへたなだけだって;-)。

投稿者 kitagawa : 2008年10月12日 05:15

なるほど。
そういえば、社会構造では、だいたい常に、引率的立場になる数%と、非引率的立場になるン%、というのは、普遍的な法則があるんでしたね。それの講義を受ける学生版、というところでしょうか。
これが普遍的なものであるならば、講義や演習のレベルをどこに設定しても、ついてくる人はついてくるし、あきらめる人はあきらめる、ということなんでしょうか。次年度、試してみようかな。

教員が持てる力を最大限出すのが健全、とは、賛同しますが、人によっては、社会的要請などから大きくズレた、その人の趣味だけ(あるいは古い時代の、現在に即していない内容)、という講義を平気でする人もいますが、そういうのは「最大限」ではないですね。(教育に対する社会的要請に応えるという努力がない、という意味で)

GPAは、成績の平均値なので、それが満遍なくいい、というより、GPの標準偏差、だと、それが大きいほど、何かに突出している、という目安になりそうですね。それがいいほうに突出している、ということを拾う動き、というものは、ないんですかね。

ちなみに、授業料を払っているんだから云々、というのは、賛同できる点も多いのですが、少なくとも、機会を与える、という必要(義務)はあるんだろう、と思います。この機会、というのは、上記の、社会的要請に応えた講義を用意することと、シラバスという契約内容を履行すること、という意味です。それをどう「生かす」かは、もちろん受ける本人しだいですけど。それをしないのは、責任放棄だと思うのです。そういう人もいますからねえ。

投稿者 akita : 2008年10月12日 20:24

> 教員が持てる力を最大限出すのが健全、とは、賛同し
> ますが、人によっては、社会的要請などから大きくズ
> レた、その人の趣味だけという講義を、

ちょっと、言い過ぎでした。十分な調査は必要ですし、教員側の努力が必要ですね。工学系の場合、学会(実は業界の集まり)でも、毎日のように来る求人企業にも直接聞けますし、学生が特許を出せるか、起業できる実力があるか、など判断材料は多くあります。ただ、社会的要請というのは判断が難しくて、何を情報源にするかに依存しますし、どの時間スケールで考えているかにも依存します。自分の付き合いのある業界の要望に合わせなつつ、結局当たり障りのない、概論になりがちというのが多くのパターンかもしれません。教員側としては、少なくとも単一文化の視野では客観的判断ができないので、海外経験、大学移動、企業からの移動、専門領域の移動(これは特に有効)などがどうしても必要だろうと思います。

> それをどう「生かす」かは、もちろん受ける本人し
> だいですけど。それをしないのは、責任放棄だと思
> うのです。そういう人もいますからねえ。

これは、自分のことのようで耳が痛いところではありますが。。。Ph.D取得とまで言わずとも自分の中に世界観を生み出す小さな種が発見できない人のために何ができますでしょうか。見守るか、せいぜい多少の刺激をするしかありません。学生に対して、教員が上位から経験を与えるとか啓蒙するような考えを持っている教員は、私なら願い下げです(最近は自分で学ばず何でも教えてくれることを期待する新入社員がほとんどだ、と多くの企業の人が嘆いていましたが)。誰かに機会が与えられることが有効なのは中学生まででしょう。それ以降は手遅れ、いや、論理思考が育つ高校生以上で、自発性のない如何なる経験も無意味です(出会い運は重要ですが)。高専からの編入生が、サイヤ人?などといわれる原因もこの辺にあるのではないでしょうか。そういう意味では、私は低学年のゆとり教育大歓迎です。感受性を殺すような学力偏重には絶対反対です。現代の学生には、自発性に基づく経験の蓄積と強烈に自己同一性を主張する精神性を育てる以外に生きる道はないのです(これは米国の大学で衝撃的に学んだ教訓です)。

投稿者 kitagawa : 2008年10月14日 01:42

それだけ立派な教育観をお持ちなのですから、「耳が痛い」ということはないのではないでしょうか。
共感できる部分も多いのですが、そういうことに気づけない学生(現在の教育政策の被害者、という言い方もできるのかもしれません)を、ただ、かわいそう/だめだ、と見捨てるのは、さすがにかわいそうな気はします。
そういうことだけでも、「気づき」ができるようなきっかけを与えることは、(それが明示的であるにせよ案目的であるにせよ)必要なのではないでしょうか。(現在の教育政策の失策をしりぬぐいなのだとしても、です)

投稿者 akita : 2008年10月14日 12:25

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