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2010年02月23日

特許と論文

最近、大学の研究として特許を書くことの意義が、よくわからなくなってきた。
技術を世の中のために広めたいのであれば、論文で公知にしてもいいわけで、
むしろそのほうが、ロイヤリティやらなんやらがない分、広めやすいはず。

しかし、逆に、こういう視点もある、という話を伺った。
論文は査読があやしい。特許は査読が厳格。つまり、特許はインパクトファクターがめちゃくちゃ大きい論文誌、といえなくもない。
また、関与する人、特に学生さんの寄与率が、論文だとあいまいになってしまう。著者順は分野によって流儀が違うし、そもそも寄与率はわからない。特許だと持分という形で明確にできる。

なるほど。そういう考え方もある。

投稿者 akita : 2010年02月23日 21:50

コメント

大学側からみると特許は高くつきますねえ。弁理士やお役所にあれだけ、お金払うなら、そのお金でもっといいことができると思います。

企業にとって特許は、防衛手段として重要な意味があるけど、大学が特許で収入を得るのは結構大変です。計算機分野では回避策がとれることが多いのでとくに儲けにくいと思っています。

投稿者 みま : 2010年02月24日 16:57

ええ、そういうことも考えると、少なくとも大学での特許を収入の手段とするのは、無理があるだろうなあ、という気がします。なのでTLOは、きっと大変なんでしょうね・・・

投稿者 akita : 2010年02月26日 08:31

呼ばれたような気がしましたので、こんな遅くにコソッとコメントしてみたり。。。

技術を評価する物差しの一つとしては、特許はかなり偏った物差しだと考えたほうがよさそうです。
寄与率に関しても、明確にすることはできるけれども、
特許の寄与率と研究全体における貢献度は、微妙に違いますので、かえって誤解を生むかもしれません。
研究内容が特許システムにフィットするような分野なら、
「逆にこういう視点もある」の部分は非常に有効に活用できると思います。

大学が知財を扱うことの意義はあるかもしれませんが、
もちろん収入を第一目的とすると、いびつな状態を招くことになるという状況をかつてどこかで見たような気がしたりしなかったりします。(曖昧な表現でお茶を濁してみたり)

投稿者 踊り食い小僧の母 : 2010年03月09日 13:12

コメントありがとうございます。たしかに寄与率は言い値かもしれませんね。
なんだか、大学で知財と言い出したころから、研究者間の関係がギクシャクしてきている場面をよく見かけるような気がするのは気のせいですかね・・・疑心暗鬼というか、なんというか。

投稿者 akita : 2010年03月13日 16:54

過激派の私がコメントすると問題があるようなので本BLOGではROMになっていたのですが、私の発言が発端のようなので。

TLOには申し訳ないのですが、学生に基本特許の出願をを経験させることに重要な意味があり、利益を得ることが目的ではありません。その一人の人材を育てるために、国の税金をせいぜい1千万円程度使うことに何ら躊躇する必要はありません。当然、特許として出願した技術は、学生自身のかけがえのない研究として卒業・修了までに製品化に移れる段階まで完成させ、かつ論文として国際誌に発表することを望んでいます。この数年、実質的に成果も出てきていますが、成果よりも学生の体験がこの国の将来に重要な意義を持っています(サラリーマンになってからでは遅いのです)いや、大学に入ってからでは遅いのかもしれませんが、それでも学生本人とこの国の将来にとって無駄ではないはずす。学会や学内での受賞や研究開発予算の獲得にも避けられないことですし、なにより研究者、技術者として独り立ちするために必要な経験だと考えています。

私のもう一つの意図は、学生の権利を無視して(学生発案の技術的意義を理解できない大学教員が大半であることも問題ですが)、学生を道具として使っている、または権利を有耶無耶のうちに搾取している大学教員に対する警告を出すことでもあります。

私は絶対的な信頼を置いていた研究パートナーからこのような意見が公表されることに大変ショックを受けています。是非、一度、米国の一流大学で、世界の大学教員がどういう意識で教育をしているか体験してくることをお勧めします。日本を含め我々の分野で先駆的な国は、今のままでは生きていけません。学生が基本特許を出願するには、論文投稿とは桁違いのパワーとスピードと意識が必要です。学生にその意識を持ってもらえる方法が他にあるでしょうか。

大学の知財部やTLOの意識も、この何年かで進歩しています。知財教育の経済効果を意識し始めています。一昨年、中国の大学を巡り、この方面で既に日本は中国に負けつつあるように感じました。現在、大学入試を経た学生と高専編入生には実力差があることがデータから明らかですが(平均的に高専編入生の実力が明らかに高い)、それ以上に、東アジア諸国の留学生と日本人の実力差が極端に大きい(このままでは日本人不要論が出てもおかしくないのでは?)。これは学力や競争率の差ではなく、明らかに意識と経験の差です。我々の仕事は大学や国の予算を上手く利用して、学生に今必要な経験をさせることではないでしょうか。

投稿者 kitagawa : 2010年07月25日 22:11

kitagawaさん、貴重なコメントありがとうございます
#同一内容が2件ありましたので1件目を削除しておきました、ご了承ください

なるほど。スピードとパワー、そしてそれを学生が経験すること、ですね。
その点に関してはまったく同感です。

ただ、なぜ論文ではいけないのか?という疑問は、やはり完全には消えないのです。確かに論文投稿、というと、気長に構えてしまうことが多いのは否定できないのですが、スピードとパワーの意識を十分に持った上での論文投稿、でも、いいのではないかという疑問が、やはり残ります。確かに、論文投稿で、そのような意識を持って維持するのは、簡単なことではないということはわかります。

あと、先のコメントとも関連しますが、特許を出願する前の自由な研究議論が十分できなくなる、という懸念は、個人的には強く感じるところです。

投稿者 akita : 2010年07月26日 01:34

あ、もしかして誤解があるかもしれないので、補足しておきますと、元文の「こういう見方もあるのか」というのは、いままでそういう視点で考えたことがなかったので、なるほど、と納得して目からウロコが落ちた、という意味です。

投稿者 akita : 2010年07月26日 12:21

もちろん、論文発表は推奨すべきことだと思います。が、論文を出してしまったら、特許出願できないです。論文だけだと何が悪いかというと、論文が出しやすい研究テーマを選びやすいということです。私はほぼ毎日、学会に投稿された論文の査読をしていますが、論文として成立しやすい研究テーマと実社会で価値のある研究テーマには、やはりずれがあると思います。
もう一つの問題として、特許は研究を実施する前に出せるけれど、論文はアイデア段階で出せないということです。集積回路のように1回の試作に何年もの期間や、数100万円〜数億円もの費用を要するような研究テーマでは、出口が遠すぎるため、学生のモーチベーションに影響します。大学の場合、権利としての特許ではなく、大学が組織的に支援する公表手段として、利用すればよいと考えるべきではないでしょうか。また、出願前の議論が十分にはできないという問題が残るものの、大学での出願は出口ではなく入り口だと考えたほうがよいのではないでしょうか。
近年、私は特許偏重になっていたので、論文の業績が少なくなり昇格に支障を来しましたが、学内評価に反比例して、対外的には一目置かれるようになったのも事実です。もっとも、学生がいなければ、1年に10編以上の論文を書くだけのネタも持っていますし、書いた論文を全て国際誌に通す自信もありますが、論文として通りやすい研究を優先すると、実際に、特許も出しにくいし、研究者としての社会的評価も下がります(事業化を想定していない信頼できない研究者とか?)。また、研究をファッションの一種と考えている、お勉強が得意な受動学生ばかりを集めても、大学の研究室としての存在価値はないですね。しかし、バランス感覚を磨けば、論文と特許をうまく使い分けられるようになるはずだと思います。

投稿者 kitagawa : 2012年02月12日 02:53

コメントありがとうございます。なるほど、バランスですね。最近、その意味がなんとなくわかるようになってきました(という気がします)。

投稿者 akita : 2012年02月12日 11:44

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